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「ポール・ジャクレー全木版画展」

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  信濃追分の追分宿郷土館で、「 ポール・ジャクレー全木版画展 」をやっていると聞いて行ってみた。  まず、「フランス人浮世絵師ポール・ジャクレー(1896~1960)」なる人がいたことを知らなかったし、軽井沢に住んでいたことも全然知らなくて、もう驚いてばかりだった。  ジャクレーの木版画は、江戸時代以来の浮世絵の多色刷りの技法を用いたもの。絵師と彫り師と摺り師がチームを作って版画制作に当たる。下絵に使っていたのが筆ではなく鉛筆だったため、線がとても繊細なのと、テーマが南洋や韓国、中国など幅広いところが伝統的な浮世絵とは違う。  何というか、目をとらえて離さない不思議な絵だった。確かに浮世絵っぽいというか、いわゆる影のない平面的な絵なのだけれど、浮世絵とは明らかに違っていて、脳が認識するのに手こずっている感がある。そして何という色の美しさ。何という細かさ。版画の技術の高さに息を飲む。  個人的には中国の女性の切れ長の目が、とても美しく表現されていて良かった。  館内では、ジャクレーとも親交のあった版画家、川瀬巴水が木版画の制作過程を解説したDVD『版画に生きる川瀬巴水』が流されていて、これも見応えがあった。スティーブ・ジョブズの美意識の原点ともなった巴水の版画がこんな風に作られていたのか…と興味深くて、思わず最後まで見てしまった。

レバノン映画「When Maryam spoke out」(2001)

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  イスラーム映画祭5で上映されたレバノン・ドイツ映画、「ハラール・ラブ(アンド・セックス)」(2015)のアサド・フーラードカール監督の作品。テーマは同じくムスリム女性の結婚と出産をめぐる問題だ。  ムスリムのマルヤムと夫のズィヤードは仲の良い夫婦だったが、結婚後3年たっても子どもが生まれない。医師の診察の結果、マルヤムは子どもが産めない体であることがわかる。  ズィヤードの母は離婚を迫り、マルヤムの母はインチキ呪術師のところにマルヤムを連れていき、マルヤムは心身ともにボロボロになっていく。養子に否定的な価値観のもと、夫婦に襲いかかる「子どもを産め」という圧力の中で、マルヤムとズィヤードの下した決断は…。  脚本もカメラも演出も何となく素人っぽく、決して洗練されたストーリーテリングではないのだが、最後の方は思わずもらい泣きしてしまった。不妊の問題を通して、アラブ・イスラーム世界で女性(と男性)が社会に何を要求されているのか、そしてその中で個人が幸福を追求できる道はあるのかを描こうとしている。  エンドロールでは、「隠れた宝」と呼ばれる言葉が繰り返し朗唱される。預言者ムハンマドが神の言葉として語ったとされるものである。 .کنت کنزاً مخفیاً فأحببت أن أعرف فخلقت الخلق لکی أعرف (我は隠れた宝であった。そして我は、おのれを知らしめたく思った。そこで我は人間〔被造物)を創造した。我が認識されるように)  この朗唱は色々な意味で解釈できるが、映画のタイトルが「マルヤムが語った時」という意味なので、これまで語られなかった女性の苦しみを知らしめるためにこの映画を作った、という解釈も成り立つかな、と思った。  

レバノン映画「Out of Life」(1991)

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  レバノン映画史を語る上ではずせない、マールーン・バグダーティー監督の最重要作品。見終わってから、「無防備都市/ベイルートからの証言」というタイトルのもと、日本でVHSが販売されていることを知った。  1987年、レバノン内戦のさなか、実際にヒズブッラーに誘拐されたフランス人フォト・ジャーナリストのロジェ・オークの体験を元にした映画である。  レバノン内戦の様子を取材していたフランス人フォト・ジャーナリストのパトリックは、ある日シーア派武装組織に誘拐されてしまう。アジトに監禁された彼の精神状態の変化と、監視役の戦闘員たちとの会話を通して、レバノン内戦の特徴や、それをとりまく大きな構造を解き明かそうとする。戦争映画だが、いわゆる「ヒーローもの」では全くない。  アジトは街の建物の中にまぎれこんでいるため、周囲では昼間は子どもたちが普通にたこあげやサッカーをして遊んでいる。誘拐されたパトリックにとっては地獄の苦しみ、すなわち「彼の戦争」が進行しているのに、外の世界からはそれが全くわからない。声を上げることも許されないし、声を上げたとしても、誰にも気づいてもらえないのだ。  パトリックと戦闘員との会話で明らかにされるのが、レバノンとフランスの圧倒的な非対称性だ。戦闘員たちは人質のパトリックに対してフランス語を話すが、これ自体が、植民地支配の証である。貧しいレバノンの村出身の戦闘員にとってはフランスはあこがれの国であり、フランス人であるパトリックはその国籍だけで特権階級の人間なのだ。  「名前をつける」というのもこの作品のテーマの一つだ。パトリックは戦闘員に対して「フランケンシュタイン」「フィリップ」などの名前をつけていくが、逆に自分が戦闘員から「ナウーム」というアラブ名を与えられると、断固拒否をする。  後に戦闘員が、ベイルートの通りの名前は「ジャンヌ・ダルク通り」だの「クレマンソー通り」だの、フランス風の名前が多い、と言う。これもかつて植民地支配の名残である。結局のところ、「名前をつける」とは「支配する」ことの現れなのだ。だからこそパトリックはアラブ名を拒否したのだろう。  また別の戦闘員は「俺は最初は共産主義者と、その後はPLOと、次は民兵組織アマルと一緒に戦って…」という。味方する勢力はどんどん変わるけれど、戦争は全く変わらない、と。いったん内戦が始まると...

レバノン映画「Ghadi」(2013)

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  この映画は日本でも一度だけ映画祭で上映されたことがあるらしい。レバノンのキリスト教徒(マロン派)の小さな街で、障害をもった男の子ガディーが人々から排除されそうになる。父親は息子を守ろうと、「息子は天使だ」と言い、街の人を信じさせようとする。やがてイスラームにおける聖者崇敬のような感じで、街の人が願掛けをするようになり…。  父親が、これから生まれてくる我が子に障害があることを知り、恩師に相談するシーンが心に残った。恩師は、「彼は神の恵みだから、生まれてくる権利がある。今すぐ名前をつけなさい。そうすれば彼は存在するようになる。名前とともに彼は人となり、いったん人となれば彼を消し去ることはできなくなる」と言う。当たり前のことなのだけれど、改めて「存在の大もとは名前にある」と聞いて、『旧約聖書』の天地創造シーンを思い出してしまった。  でも少しもやもやした気持ちも残る。ガディーの父親が、街の人々の願掛けに対応できる資産と実行力があったから良かったようなものの、もし何もできない父親だったら結局ガディーは排除されてしまうのか?ガディーがガディーであるだけでは受け入れてもらえないのか?そういった父親の実力も込みで、ガディーがこの世に生まれてきた役割だ、ということなんだろうか?  その問題は消化できなかったけれど、コミュニティの人々が、それぞれ小さな願いをもっていて、それは周囲の人間が丁寧に聞いて動いてあげれば結構かなうことなんだ、というのは面白い。人に手を差し伸べることの大切さ。窮地に陥った父親を助けるのが、街の中でも二級市民扱いされていた人たちだったというのも、「良きサマリア人」っぽいなと思った。  

エジプト映画「Dark Waters」(1956)

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 ユースフ・シャヒーン監督の「カイロ中央駅」(1958)はエジプト映画史上に残る大傑作だけれど、その2年前に作られた作品。アラビア語の原題は、「港の争い」という意味。  港町アレクサンドリアに、船乗りのラガブ(オマー・シャリフ)が3年ぶりに帰ってくる。ラガブは従姉妹のハミーダ(ファーティン・ハマーマ)との結婚を望んでいるが、ハミーダは大会社社長の息子マムドゥーフとも仲よさげで、ラガブは嫉妬にかられる。一方で、マムドゥーフの父の経営する会社の内紛のために、港湾労働者たちが分裂して争うようになり、ラガブも巻き込まれてしまい…。  それなりに有名な1954年の「渓谷の争い」(上エジプトの農民を描く)と、大傑作の「カイロ中央駅」(カイロ駅のポーターを描く)の間の時期に作られた作品で、内容もこれらと同じ「女性1人に男性2人」と「貧困・労働の問題」を組み合わせたものなので、あまり注目されてこなかったのもわかる気がする。  「港の争い」の中で、主人公は若さゆえに誤解をしてしまったり、貧富の格差に対して憤ったりするが、なにしろオマー・シャリフなので、とにかく全てがキラキラして美しい。  これが「カイロ中央駅」になると、性的に抑圧された足の不自由な主人公を監督自身が演じていて、狂気がより内に、内にと向かい、陰惨になっていく。そうすることで、社会の近代化が進めば進むほど置き去りにされる個人の内面が、恐ろしいほどうまく表現された感がある。「港の争い」を見ることによって、監督は「カイロ中央駅」に向けて何か腹をくくって決断する必要があったんだな、そしてその決断は正しかったんだな、と考えさせられた。     

愛あふれる人の四十九日

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   叔母の訃報が入ったのは6月26日の朝だった。  本当に突然の知らせで、電話を切ってからもしばらくは信じられなくて、床につっぷして号泣したのはだいぶたってからだった。  大好きな人だった。いつも私をかわいがってくれて、応援してくれて。愛にあふれた人だった。  逝き方ももう、見事というしかなくて。昼間にお墓参りに行って、おいしいご飯を食べて、夕飯に家族と家でお寿司を食べて、足りないからとうどんを作ったそうだ。その夜中、心臓が止まってしまった。誰も苦しめず、自分も苦しまず。従姉妹は、「最後にお母さんの手料理を食べられて良かった…」と言っていた。  今日はその叔母の四十九日の法要だった。お寺が遠いし台風だし、どうしようとも思ったが出かけた。  思えば私が字幕翻訳をした最初の作品が映画館で上映された時、叔母は何時間もかけて遠方からわざわざ来てくれたのだ。でも満席でチケットが買えなかった、と後でわかって、慌てる私に「いいのよいいのよ-」と明るく言ってくれた。思い出して泣きそうになりながら、雨の中を歩いた。  法要は三十分くらいで終了。これから納骨だという。風雨が強まる中、お寺から少し離れた市民霊園に、従兄弟たちが車で連れて行ってくれた。  「あ!へび!へび!大きいへびがいる!」突然、従兄弟が叫んだ。道路脇にへびがいたらしい。「え?どれどれ?」探したけれどもうわからない。「この辺は田舎だからね-」「へび、轢かれちゃうんだよね-」車内で従兄弟たちがのんびり話している。  霊園についたら、もう大嵐。お坊さんにさしかけるパラソルが飛びそう。ビニール傘はおちょこ。なんかコメディ映画のワンシーンみたい。大慌てでお墓に手を合わせる。叔母さん、いつまでも大好きだよ。愛してるよ。もっと会いたかったし、言いたかった。ありがとう。  帰りは従兄弟の奥さんが近くの駅まで車で送ってくれた。そこから電車を乗り継ぎさらに2時間。自宅にたどり着いた時、ようやく雨が上がった。  亡くなった人、生きている人。みんなが愛おしく感じられる日だった。生きている限り、私も精一杯生きなくちゃ。ああ、あと、へび。へびも車に轢かれるなよ。  愛あふれる人の四十九日は、こんな感じだった。 Rest In Peace...    

モロッコ映画「The unknown saint」(2019)

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  砂と石ころだらけの、荒涼としたモロッコの村に、一人の泥棒がやってくる。泥棒は盗んだ金の入った鞄を、小山の上に埋めるが、その直後に逮捕され、刑務所に入れられてしまう。  数年後、刑期を終えた泥棒は、金を掘り出しに村に戻ってくる。しかし金を埋めた場所には、何と聖者廟が建てられていた。(彼が金を埋めた場所が、「一夜にして未知の聖者の墓ができた奇跡の場所」と見なされたのだろう) 昼は村人や巡礼者が、病気快癒の願掛けに来て、夜は犬を連れた夜警が入り口で見張っている。果たして泥棒は金を取り戻せるのか…。    コメディ映画で、思わず笑ってしまうシーンがたくさんあるが、ハリウッド映画のようなテンポの速さはなく、ゆっくりとした、かつシュールな展開だ。エリア・スレイマンとキャーロスタミーを7:3で混ぜ合わせたような感じ。ベージュと茶色の大地や建物に、ブルーやペパーミントグリーンのドアといった色使いの美しさが素晴らしい上に、サイドストーリーを彩る村人たちの造形も非常に面白い。予想もつかない方向に導かれるわくわく感もある。魅力的な映画だ。  物語の一つの鍵が「雷」なので、見終わった後に『クルアーン』雷電章を読んでみたら、作品世界に対する理解が深まる気がした。この世の全てを作り、動かす神のみわざと、そのもとで生きる人間のあり方について、思いを馳せずにいられない。その上で、人々がどうやって聖者崇敬にたどりつくか、ということも示唆していて、イスラームという宗教の様々な要素が、これまでになくトータルに表現されているなあ、と感心してしまった。 アラビア語の原題も同じ。アラーエッディーン・アルジェム監督、2019年。    

レバノン映画「Minerva」(2021)

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 3日前に、レバノン映画「Heaven without people」の感想を書いたことをTwitterでつぶやいたら、何と監督ご本人からリツイートされてしまった。  それで初めて知ったのだが、監督は今年、「Minerva」という短編ドキュメンタリー映画を制作されていた。7分と短い作品なので、早速見てみた。  今からちょうど一年前の2020年8月4日早朝、レバノンで大規模な港湾爆発事故が発生する。そこから500メートル先に済んでいた69歳の女性、ミネルヴァは重傷を負い、入院した後、12日に亡くなった。  どう考えても爆発事故の犠牲者なのだが、当局は彼女を遺族のリストの中に含めようとしない。息子のジョゼフは奮闘し、必要な書類を集めていく。皆が彼女を忘れないために…そんな物語である。  とても静かな映画。黒い画面の中に、彼女の写真が一枚、また一枚と置かれていく。「爆発事故で200人以上の犠牲者が…」と私たちは簡単に言うけれど、その一人一人に家族がいて、今もずっと、死者を悼んでいる。当たり前だが忘れがちなこのことを、この映画は思い出させてくれる。編集がとぎすまされていて、短いけれど、いや、短いからこそ、哀しみが伝わってくる。 港湾事故から一年、多くの方に見ていただきたい作品だ。

サウジアラビア映画「The book of Sun」(2020)

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  2010年のサウジアラビア、ジェッダ。高校3年生のユーチューバーで映画オタクのホサームは、ひょんなことから同級生たちと低予算ホラー映画を作ることになってしまう。ところが制作過程はトラブル続き。果たしてホサームは映画を完成させることができるのか。そして彼の将来は…?  長らく映画産業がなかったサウジアラビアでも、近年少しずつ映画監督の活躍が伝えられるようになってきた。2018年には映画館も解禁になり、本作もジェッダやリヤドの映画館で上映されたようだ。  男子校を舞台にした青春コメディーということで、同級生との友情や、人生の目的を見いだして生きることの尊さが、直球勝負で描かれる。ホサームをサポートする先生もいい。  監督は相当な映画・ドラマ好きなのだろう。劇中では欧米の映画作品の名前が色々と(最後には日本のアニメも)言及される。ホサームは、グエンティン・タランティーノ、デイヴィッド・リンチ、ウェス・アンダーソンを見てきた自分にとっては、サウジアラビアの人気TVコメディシリーズ「ターシュ・マー・ターシュ」などは時代遅れなんだ、と言うが、これがサウジアラビアの若い世代の気持ちなんだろうな。物語にはさりげなく検閲の問題も入っていて、とにかく自分たちの新しい感性で、好きなようにどんどん作らせてくれ、というメッセージが伝わってきた。  学校ではもみあげ禁止とか、イスラームの五行(スンナ派の五つの義務)を生徒5人で説明する発表会をやっているとか、サウジアラビアの男子校の様子もうかがい知れて面白かったし、ホラー映画のアイディアを話しあう時、「沙漠で一人で礼拝していると、なぜか唱和する声が聞こえてきて…」とか「モスクで一人で礼拝していると、右側に殺された友人が…」とか、なぜか礼拝がらみになっていたり、ホラー映画の中で、やたら『クルアーン』が言及されるのも、イスラーム圏ならではという感じがした。 原題は、「諸霊知の太陽」(アフマド・アル=ブーニー著とされる13世紀の呪術書の名)。 ファーリス・クドゥス監督、2020年    

レバノン映画「Heaven without people」(2017)

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  ベイルートのキリスト教徒、ジョセフィーヌとアントワン夫妻の家。イースターの日に家族・親族が集って食事をしているところに、遅れて息子のセルジュと恋人のライラがやってくる。地区は停電中。セルジュは母ジョセフィーヌとエチオピア人のメイド、ズーファンに挨拶をして、ライラとともにテーブルに着く。   ご馳走を囲んでの会話劇。聞いているとだんだんに家族の事情がわかってくる。長女リタの夫(カトリック)をのぞき、一家はマロン派キリスト教徒。だがメンバーそれぞれが政治的、宗教的立場、生活レベルにおいて微妙に異なっている。世代による意見の違いもある。前半の会話に色々な伏線がしかれていて、それが後半にどんどん回収されていく。ネタバレになるので詳しくは書けないが、例えばライラが「私はダーヒヤ地区に住んでいて」と言って、見ているこっちとしては思わず「おお!」となったりする。  それだけではない。独立時の「国民協約」(大統領=マロン派、首相=スンナ派、国会議長=シーア派の取り決め)、内戦、そして2006年のイスラエルの侵攻といった、レバノンの歴史をおさらいしながら、宗教過激派、選挙買収、青年の非行、湾岸諸国への出稼ぎ、外国への移住、マティズモ、外国人労働者といった、今のレバノンが抱える問題がてんこもりで語られる。一軒の家の中、キリスト教徒のイースターのテーブルから、「レバノンの過去と現在」を見せようとした脚本だ。…というか、この作品の3年後には港湾爆発事故、そして現在は経済破綻という状況を考えれば、ある種、レバノンの未来を予言した作品と言ってもいいかもしれない。  「人がその人生で自由でいられるのは最初の5分間だけだ。すぐに名前と国籍と宗教を与えられるのだから」というセリフが印象的だった。その国のその宗教の家に生まれた瞬間から、どういう人生なのか大体決まってしまう、という状況に対して、特に若い世代ほど閉塞感を覚えているのがよく伝わってくる。  90分間ひたすら会話を聞いているのと、カメラが固定でないので、面白いけれど結構疲れる映画だった。一家が当たり前のようにカリール・ジブラーンを話題にしてくれるのが救いかな。 アラビア語の原題はさしずめ「イースター・ランチ」といったところか。 ルシアン・ブージェイリー監督、2017年