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アルジェリア映画「The Repentant」(2012)

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  ちょうど十日ほど前(2021年9月17日)、アルジェリアのブーテフリカ前大統領が84歳で死去したというニュースがあった。どんな報道でも、大体において彼の政治を「1990年代のアルジェリア内戦からの治安回復をはかるため、過激派の投降を促し、国民の融和を進め…」という感じで総括していた。この映画はその「過激派の投降を促し」という、文字にしてたった9文字でまとめられてしまう内容が、実際にはどれほどの人々の苦悩や波乱を含んでいるかということを表現した作品である。  1990年代にアルジェリアで始まった政府・軍とイスラーム主義者の反政府勢力との内戦は、多くの死者、行方不明者を出し、「暗黒の十年」とも呼ばれる時代をもたらした。犠牲者数は10万人から20万人とも言われている。ブーテフリカ前大統領は、1999年に「市民融和法」を、2005年に「国民和解憲章」を成立させ、反政府武装組織の戦闘員の投降と武装解除を進めたのだが、この映画はそのうち前者が背景となっていると考えられる。  武装組織のメンバーだった青年ラシードは、拠点となっていた山岳地帯を降り、村に帰ってくる。両親は歓迎してくれたものの、村人の中に、ラシードのせいで家族が虐殺されたという者がいて(ラシードは自分は無実だと主張するのだが、聞いてもらえない)、村にはいられない。法律に従って町の警察に出頭し、武器を納めたラシードは、警察署長のはからいで町のカフェのウェイターの仕事をもらい、カフェに寝泊まりしながら仕事を覚えていく。  しかしながら、カフェのオーナーは、戦闘員だったラシードを見下しているし、警察署長も、「お前のファイルは俺が握っている。お前のこれからの人生は俺次第だ」と言って、ラシードにスパイ行為を強要してくる。人間はそんなに簡単に「過去を消せる」ものではないのだ。  と、ここまでは、「こういう状況のラシードがどうやって、新しい人生に踏み出していくのかを描く作品なのかな」と思って見ていたのだが、ここで突然、何の脈絡もなく、薬剤師のラフダルという人物が出てくる。一人暮らしのラフダルは夜な夜な秘密営業の酒屋で買ったワインをがぶ飲みし、中国語の衛星放送(CCTV4)を見ながら寝てしまうという、精神的に荒れた生活を送っている。一体ラシードとどう関係するのか、最初は全くわからない。謎は後半にかけて少しずつ明らかになっ...

リビア映画「Freedom Fields」(2018)

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  「Freedom Fields」は、リビア人の父とイギリス人の母をもつ女性監督、ナズィーハ・アレービーが、革命(カッザーフィー政権崩壊)後にリビアで誕生した女子サッカーナショナルチームの顛末を描くドキュメンタリーだ。プロデューサーや編集も女性が手がけている。彼女たちの意気込みが伝わってくる作品だ。  映画は特に3人の選手に焦点をあてながら、革命の1年後から5年後までの出来事を追っていく。エンジニアで現実主義者のファドワー、医学の勉強をして情熱的なハリーマ、そしてタワルガからの国内避難民のナーマ。バックグラウンドもサッカーへの考え方も三者三様の彼女たちを通して、革命後のリビアにおける女性の状況を描き出す。  革命後、リビア各地から女子サッカー選手が集められ、ナショナルチームが作られたところまでは良かったが、ここで彼女たちに対する猛攻撃が起こる。「足を出してプレイするとは何事だ」「女にサッカーを許したら他のスポーツも許すはめになるぞ」ということだ。イスラーム主義者の過激派組織からは脅迫状が届き、ネットでも大バッシングにさらされるようになる。サッカー連盟の決断は?何としても国際試合をしたい彼女たちはどうするのか…?  中東における女子選手を描いたドキュメンタリーだと、「 イラン女子サッカー奮闘記 」(2008)や、アラブだと、パレスチナの女子カーレーサーを描いた「 スピード・シスターズ 」(2015)があるが(どちらも非常に優れたドキュメンタリーだ)、女性が抱える困難という面では、それらと共通する部分もある。前半でハリーマがつぶやくセリフがそれを象徴している。「(女性は)生まれて、成長して、結婚する。ただそれだけ。それが人生。もしそれを全部やらないと、それは『間違っている』っていうことなの。ママは私がプレーすることに反対はしていないけれど、やめるべきだって思ってる。私は結婚するべきだって。私は来年までに結婚しなきゃならないのよ…」 この結婚への圧力を裏付けるかのように、しばしば、夜の街で華やかなドレスがライトアップされた洋品店の様子が映し出される。闇の中にきらめくスパンコールが無言で何かを語りかけている。  こうした状況の中で、彼女たちのフラストレーションが高まらないはずがない。なぜ男性は国を代表することができて、私たちにはそれが許されていないのか。なぜ男性が...

レバノン映画「Where To? 」(1957)

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  今や世界的に活躍する映画監督を輩出する レバノンだが、その地で制作された最初の映画が移民に関するものだったということはあまり知られていないかもしれない。 イタリア人のジョルダーノ・ピドゥッティ監督が1929年に制作した「エリアス・マブルークの冒険」、アメリカに長期滞在して帰国した移民を描いたサイレントコメディだった。この作品以来、海外移住や、移民とその帰還は、レバノン映画でしばしば扱われるテーマとなった。  今回見た ジョージ・ナセル監督の「 Where To?」もこの流れの中に位置する作品だった。レバノンの貧しい農村に生きるキリスト教徒の農民ハミードは、妻の制止をふりきって単身ブラジルに移住する。より良い暮らしを求めての決断だったが、その後 ハミードからは故郷に何の便りも(もちろん送金も)ない。 残された妻は、二人の息子、サイードとファリードを抱え、必死で生き抜く。いつしか20年の歳月が過ぎてゆき…。  アメリカで映画を学び、レバノンに帰国した監督の長編第一作ということで、全体的に素朴な作りで、静かな哀しみに胸を浸される映画だった。ブラジルへのレバノン移民というと、カルロス・ゴーン氏のことが思い出されるが、移住によって出世したり成功したりする人ばかりでなく、失敗した人もいただろうし、また、単身で移住した男性の背後には、故郷で辛酸をなめる家族がいたことを、改めて考えさせてくれる。  映画は国内ではほとんど上映されなかったらしいが、国際映画祭では評判が良かったようだ。結婚式のシーンなど、レバノンの伝統的なダンス(ダブケかな?)や剣舞がふんだんに盛り込まれていて、映像としても貴重だと感じた。今回、MUBIであと5日…という所で見つけて滑り込みで視聴できたのだが、いやはや、本当にありがたいことだった。 アラビア語の原題も「どこへ?」      

チュニジア映画「Dear Son」(2018)

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(ネタバレ注意:前半までの重要な部分を含みます)   先日見たチュニジア映画「Hedi」 のムハンマド・べン・アティーア監督の長編第二作。これも親子関係がテーマの作品だ。  退職間近のチュニス港のフォークリフト作業員、リヤードと、教師の妻ナズリ。最近心配しているのは、一人息子の19歳のサーミーが、バカロレア試験を目前に、ひどい偏頭痛に悩まされ、嘔吐し、時に失神するようになっていることだ。  ジャスミン革命後のチュニジア。暮らし向きが楽ではないなか、リヤードは息子の問題を解決しようとあらゆる努力をする。カウンセリングに連れて行って、サーミーは少し調子が良くなったかに見えたが、ある朝突然いなくなってしまう。リヤードが驚いたことに、彼の行き先はシリアだった。果たしてリヤードは息子を取り戻せるのか…?  凄いなと思ったのは、サーミーの行き先について、失踪以前に何のヒントも描かれないということだ。何しろ行き先が行き先なので、普通ならモスクに出入りするとか、過激な仲間ができるとか、何らか示唆する行動があるはずなのに、それが全くない。(サーミー自身の嗜好としてわかるのは、部屋にベルギーのヒップホップ・ミュージシャンのストロマエのポスターが貼ってあることくらいだ) つまりこの映画は、チュニジアの若者のIS行きの背景を、モスクとか過激な説教師の存在といったありがちなストーリーでは語らず、徹底して家庭のひずみとして描いているのだ。  リヤードは暴力的でも抑圧的でもない。たぶん誰が見ても「良い」親、息子を溺愛している親である。しかし息子に、自分では全く気づかずにプレッシャーをかけている。この「無自覚」というのが一つのキーワードだ。ただ働き、金を稼ぎ、結婚することを目標にすればよかったリヤードの世代と、より抽象的で、100%理想的な「生きる意味」を見つけなければならない息子の世代では、心に抱えているものが全く違う。子どもが嘔吐したり失神したりするのは、体を使って親にSOSを発しているのだが、リヤードにはそれが理解できなかった。  ラストシーンが、最初は「???」という感じだったのだけれど、見終わってつらつら考えているうちに、すごくリアルなラストだと思えてきた。リヤード役のムハンマド・ズリーフの名演技が光るとともに、彼の女性の同僚を演じたイーマーン・シャリーフも魅力的。カンヌ国際映画祭で上映...

「川瀬巴水-版画で旅する日本の風景-」

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  先月、フランス人浮世絵師 ポール・ジャクレーの展覧会に行った のだが、その時、会場で川瀬巴水の版画制作過程を記録したドキュメンタリー映画を流していた。それが大変面白かったので、大田区立郷土博物館で開催中の「 川瀬巴水-版画で旅する日本の風景- 」展(後期)にも足を運んでみた。  川瀬巴水については、 スティーブ・ジョブズ が子どもの頃に彼の版画を見てその美しさに感銘を受け、大人になってから買い集めになるようになった、ということくらいしか知らなかったので、何もかもが新鮮だった。巴水が大田区の馬込や池上に住んでいたということも、大田区立郷土博物館が膨大な巴水のコレクションを持っていることも、今回はじめて知った。  巴水の版画は「新版画」というジャンルにあたる。絵師である巴水が版画の原画を描き、それを元に彫師が版木を彫り、摺師がそれに絵の具を乗せて摺るのだが、その原画の元となるのが写生帖だ。巴水は写生帖に鉛筆で風景を写生する。(それに色をつけている場合もある) 今回の展覧会では、全てではないが、完成品としての版画の隣に、元になった写生が置いてあって、比較できるのがとても面白かった。  石組みの線や、人物の向き、雲の形など、写生の段階から版画の段階にかけて、微妙に変わっているのがわかる。風景を見て、構図がひらめくとそこでスピーディーに写生をするけれど、原画を描くにあたっては、「版画としての美」を求めて何度も描き直したりしたのだろうと想像した。  いったん原画ができると、それを色を変えて摺ることができるのも版画の醍醐味だ。同じ板木で、昼と夜の絵を作ることもできる。巴水には夜の絵が多い、というのも今回知ったことだ。写生は昼間にしているのだろうが、版画は夜の場面、となれば、巴水の頭の中でどのような変換が行われていたのか、考えるのも楽しい。  (愛子之月(宮城県)1946年)(館内撮影可能)    (湯宿の朝(新潟(塩原 新潟))とその写生帖(左)(館内撮影可能)  それにしても、この究極の緻密さと、それによって表現される雨、雪、空、月、水辺のえもいわれぬ美しさ。版元の渡辺庄三郎の死(1962)とともに「新版画」が衰退してしまった今、このような版画を作ることはできるのだろうか。優れた絵師は今もいるかもしれないが、彫師と摺師の技術はどれくらい継承されているんだろう。そんな...

エジプト映画「EXT.Night」(2018)

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  この映画は2018年の暮れにカイロの映画館で見て、その後アフマド・アブダッラー監督にお話を伺った思い出の映画。先日MUBIで配信されているのを見つけて、駆け込みで再鑑賞した。  映画監督のムハンマド(通称モー)が、ある夜、ひょんなことからタクシーでカイロの街をうろつくはめになってしまうという物語。モーと、タクシー運転手のムスタファー、そして行きがかり上同乗することになった娼婦のトゥトゥの三人の間の人間模様を描く。  三人は社会階層が違う。そのために生活も考え方も、何もかも違う。エジプトの格差社会というか、人々の断絶ぶりが浮き彫りになる。  良くできているなと思うのが、3人が住んでいる場所だ。カイロ・アメリカン大学出身で映画監督のモーは静かで比較的ハイソサエティな地区、マアーディーに住んでいる。タクシー運転手のムスタファーは、その隣の庶民的なハダーイク・イル=マアーディーに、そして娼婦のトゥトゥはさらにその隣のもっと庶民的なダール・イッサラームに家がある。この三つは地下鉄では三つ並んだ駅なのだが、駅が一つ違うと文字通り「住む世界が違う」のだ。(と、アフマド監督はおっしゃっていた)  映画ではモーが、自分とは生活も考え方も全く異なる二人と接し、自分の殻を破っていけるかに焦点があてられているが、もう一つ、娼婦のトゥトゥに対する男性二人のふるまいを通して、女性が置かれている状況についても問題を提起している。エジプトやアラブ世界について予備知識がないと、わかりにくい部分があるけれど、格差とジェンダーという、みずみずしいテーマを扱いながら、2011年革命後のエジプトを描こうとした作品だ。  サブストーリー(おそらくモーの頭の中の映画の構想)として、上エジプトの男性が移民として地中海を渡ろうとする話が時おり挿入されるのだが、それが幻想的でとても美しく、見ていて胸がしめつけられる。  この作品から3年、アフマド監督が今どんな作品を作っているのか、気になる。

チュニジア映画「Hedi 」(2016)

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 チュニジア映画には、マティズモ社会の中で傷つく男性を描いた名作「灰の男」(1986)があるけれど、これは母親に抑圧され傷つく男性を描いた作品だ。   25歳のハーディーはプジョーの冴えないセールスマン。生活の全てを母親に仕切られ、家族の決めた相手との結婚式を控えている。ハーディーは母からいつも兄アフマドと比較され、感情や意見を表すことができなくなっている。本当は絵を描くことが好きで、作品を発表したいのに、その夢をかなえられそうにもない。  そんなハーディーが、仕事先のマハディア(地中海沿岸のリゾート)で、リムというオープンマインドで魅力的な女性と出会う。次第に変わっていくハーディー。果たして自分のために人生を歩んでいくことができるのか…。  演出家の竹内敏晴が、『教師のためのからだとことば考』の中で、日本の劇(ドラマ)は、ヨーロッパ流の「明確な目標を持って行動する」というストーリー展開ではなく、主人公が模索して模索して最後に選択し、そこでドラマが終わってしまう、つまり非行動のまま終わる形になりやすい、と述べているが、まさに「選択に至るまでを描く」作品だ。ハーディーがどんな決断を下すのか、最後の瞬間まで目が離せない。  リムとの出会い以降の展開には疑問な部分もあるが、とにかくチュニジアの空気感が絶妙に表現されていて、見ていて懐かしさでいっぱいになってしまった。そこはかとなくジャスミン革命とその後のチュニジアの歩みについても言及されているし、ハーディーが自己を解放する場がスーフィー教団の集会だったりする所も、欧米の観客への配慮が行き届いているなと思った。  それにしても「あなたのために良かれと思ってやったことよ」とか、「そんなに傷ついているなんて知らなかった」とか、抑圧的な親の言うことは洋の東西を問わず同じなんだな…。ムハンマド・ベン・アティーア監督の長編第1作。この作品はMUBIで見たのだが、MUBIにはこの監督の次の作品も出ているから、近々見てみようと思う。 原題は「いとしのハーディー(We love you, Hedi)」と言ったところかな。